先日ようやく赤松貞明氏の墓地にたどり着くことができた。
所在地は高知市北部の出身地最寄りの山中にあった。
(詳細な位置は伏せさせていただく)
現地調査の流れは以下の通り
①知人、親類への聞取り調査で高知市北部の山中と確認
②地域のふれあいセンターで聞取り⇒手掛かりなし
③高知市環境保全課で聞取り⇒赤松氏が亡くなった昭和55年当時に操業していた霊園を確認
④対象霊園管理会社での聞取り&墓を1塔づつ確認する。⇒手掛かり無し。個人所有の墓と推測
⑤最寄りの寺で個人所有の墓が集まる地域を確認し現地捜索⇒手掛かり無し
⑥調査内容をご親戚に報告⇒直近で墓参りをされていたご親戚から詳細な位置情報を教えてもらう
⑦半径1km圏内まで絞り込むが見つからず4週間進展なし
⑧再度ヒントを貰い調査⇒ようやく発見
建立日は昭和35年11月30日、時期的に赤松貞明氏自身が建てた物だと思われる。
(近隣に散らばっていた家族の墓地をまとめるため建立したと親族に伺う。なお、氏には実弟(ヒデオ氏)も居られたので兄弟で協力して建てた可能性もがある)
この時期は赤松氏にとって受難の時期だった。
昭和34年1月、経営不振により西日本軽飛行機協会は大阪の不動産業者に航空機ごと身売りされる。
同時期この混乱に乗じて若林という人物が同協会名を語った詐欺事件を起こし、赤松氏も警察からの事情聴取を受けている。(当然無関係)
また詳細な時期は不明だが最初の妻、久子さんが亡くなられたのもこの時期と推測される。
久子さんは戦中に赤松氏が軍用機を使った猛アプローチで射止めた恋女房で、戦後は西日本軽飛行機協会で活動する赤松氏を支えるために飲み屋「万亀」を一人で切り盛りしていた女性。
家を売ってまで運営に関わった西日本軽飛行機協会が他人の手に渡り、支えてくれた妻も亡くした中でどんな気持ちでこの墓を建てたのかと思うと身につまされる思いになった。
所在地は高知市北部の出身地最寄りの山中にあった。
(詳細な位置は伏せさせていただく)
現地調査の流れは以下の通り
①知人、親類への聞取り調査で高知市北部の山中と確認
②地域のふれあいセンターで聞取り⇒手掛かりなし
③高知市環境保全課で聞取り⇒赤松氏が亡くなった昭和55年当時に操業していた霊園を確認
④対象霊園管理会社での聞取り&墓を1塔づつ確認する。⇒手掛かり無し。個人所有の墓と推測
⑤最寄りの寺で個人所有の墓が集まる地域を確認し現地捜索⇒手掛かり無し
⑥調査内容をご親戚に報告⇒直近で墓参りをされていたご親戚から詳細な位置情報を教えてもらう
⑦半径1km圏内まで絞り込むが見つからず4週間進展なし
⑧再度ヒントを貰い調査⇒ようやく発見
建立日は昭和35年11月30日、時期的に赤松貞明氏自身が建てた物だと思われる。
(近隣に散らばっていた家族の墓地をまとめるため建立したと親族に伺う。なお、氏には実弟(ヒデオ氏)も居られたので兄弟で協力して建てた可能性もがある)
この時期は赤松氏にとって受難の時期だった。
昭和34年1月、経営不振により西日本軽飛行機協会は大阪の不動産業者に航空機ごと身売りされる。
同時期この混乱に乗じて若林という人物が同協会名を語った詐欺事件を起こし、赤松氏も警察からの事情聴取を受けている。(当然無関係)
また詳細な時期は不明だが最初の妻、久子さんが亡くなられたのもこの時期と推測される。
久子さんは戦中に赤松氏が軍用機を使った猛アプローチで射止めた恋女房で、戦後は西日本軽飛行機協会で活動する赤松氏を支えるために飲み屋「万亀」を一人で切り盛りしていた女性。
家を売ってまで運営に関わった西日本軽飛行機協会が他人の手に渡り、支えてくれた妻も亡くした中でどんな気持ちでこの墓を建てたのかと思うと身につまされる思いになった。